就活活用、迷ったらココ

今日、経営倫理学が注目されつつあるが、企業に関する倫理では組織倫理と企業の制度とが表裏一体の関係にある。 ここでは倫理的側面から考察をはじめよう。
かなり長い間、経済社会問題を倫理に依存して解決する方法は軽んじられていた。 人間は私利を追求する「非倫理的」な存在である、という新古典派経済学的な思想が支配的であったのが一因であろう。
人間がもともと「非倫理的」でこの性質を変えることができないのであれば、どんなに倫理を説いても無駄である。 ながら、この点に関してわれわれが第二章で注意深く論考を進めてきたように、個人の価値観・行動方針・他者に対する期待などは、操作して変えることができる。
話合いや説得によって個人の行動が変わるのが、その例である(もちろん、いかようにも変更できるというわけではないが可塑性はかなり高い。 )前章で取り上げた終身雇用制に関係する問題のほとんどは倫理的問題である。
あるいは制度と倫理とが関係しあった問題である。 この事実は、倫理的な側面を重視して日本的制度の改善を考察することの重要性を示唆する。

今日多くの人が倫理を口にしはじめたのも、直面する問題を倫理的に解決せざるをえないことを感じているからであろう。 経営倫理学が1970年代の後半からアメリカで研究されはじめたということは、アメリカにおいても新古典派経済学的な思考のみでは、企業ないしは経済がうまく機能しないことを示している。
日本人は先の戦争以来倫理を毛嫌いしてきた。 戦争の失敗のためであろう。
倫理を論ずると聖人君子の問題だと誤解する人もいる。 確かに聖人君子を目指すことも倫理の問題であろう。
本書でわれわれが問題とするのは、公の場としての組織のなかでの倫理であって、私的な行動の倫理ではない。 前者に関する意見の一致を得ることは相対的に容易であり、実行できる確率も後者よりは格段に高い。
私的な倫理については、多くの面について意見の一致を得ることは不可能である。 信じる宗教が異なれば、食べてよい物や休息のとり方も異なる。
他者に迷惑をかけない変態性欲行動の是非は人によって異なる。 実社会では、特定の個人の私的な行動に関して倫理的問題を言挙げすべきではない。
さもなければ社会はますます陰湿になる。 そもそも、できるほど自分が倫理的であると考えている人間はほとんどいないであろうし、倫理的な人間はそのようなことをしないであろう。
私的な倫理はあくまで個人だけの問題である。 またほとんどの人間は聖人君子にはなれないのである。
(伝えられる話では、釈迦でさえ若いときは、キリスト教などの私的倫理からみると倫理的とはいえないことをしたといわれる。 このような人物のほうが、偽善性が感じられず、多くの日本人には好ましく思われるであろう。
)新古典派経済学でも倫理が仮定されているアメリカ的な制度は、新古典派経済学の世界に最も近いシステムであろう。 アメリカ流の個人主義的価値観を基に、アメリカ人が意識的にその制度を自由競争的なものにしてきたためでもある。

新古典派経済学の最も盛んな国がアメリカであるのは領ける。 新古典派経済学の教科書に、個人の倫理の問題が明示的に出てくることはない。
新古典派経済学のなかでも、いくつかの倫理が「暗黙のうちに」仮定されている。 例を挙げてみよう。
新古典派経済学では契約という概念が重要である。 取引は契約に基づいてなされると想定されている。
もし個人が非倫理的で契約を守らなかったならば、新古典派経済学は成立しない。 一般均衡論では、ある時点で契約が結ばれ、将来時点で実行されるということが論じられる。
もしこの契約が実行されなければ、経済はパレート最適どころか混乱状態になる。 新古典派経済学では、すべての経済主体は契約を守るという信頼関係が暗黙一農に仮定されている。
付言すれば、契約書に将来受け取る金額を記載する場合は、政府が過度のインフレやデフレを起こさないと信頼できなければならない。 この指摘に対して、契約が守られない場合は裁判に訴えることができるという反論が出るかもしれない。
一般均衡論の古典ともいうべきD氏の『K』には裁判所は登場しない。 また裁判所を登場させても議論の本質は変わらない。
裁判官などが倫理的であることを仮定しなければならないだけである。 裁判官が賄賂を受け取って判決を不公正にすることがないと仮定する必要がある。

倫理的行動の要求される主体数が大幅に減少したのでかなりいいではないかという反論が出そうであるが、裁判を利用するためには膨大な取引費用が生じる。 また、一般の人間は信頼できないが裁判官は信頼できる社会というのも想像しにくい。
信頼がなければ、小売業も大変面倒なことになる。 顧客から代金を受け取っていないのに顧客が支払ったと主張したら、受け取っていないことをどのように証明するのであろうか。
現実の社会に信頼が存在しなければ、こうした不正を防止するために、多大な費用がかかるであろう。 経済学では、基本的な倫理は当然遵守されると、暗黙のうちに仮定して議論が展開されているのである。
他者の財産や生命を害しない倫理も暗黙のうちに仮定されて、一般均衡論やその他の分析が行なわれる。 経済学(の教科書)がいう「合理的」な行動も、信頼なくしては、実際は実行不可能なのである。
新古典派経済学が暗黙のうちに倫理を仮定しても、その倫理が現実に守られているとは限らない。 アメリカ社会では、右の倫理が必ずしも守られていないのは明らかである。
自称敬虐なプロテスタントでさえ、プロテスタントの倫理を必ずしも守っているわけではない。 新古典派経済学が当然守られるべきこととして仮定したことが、今日の重大な問題となっていることは興味深い。
あまりにも多い訴訟や犯罪がその例である。 それらを無視し、新古典派経済学の教科書のみを規準として現実を考えると、経済の進むべき方向を誤らせる。
信頼に関して重要なことは、純粋な私利追求に基づく自由競争は信頼を破壊するということである。 信頼はエゴイストによっていつでも利用される可能性を持つ。

信頼を裏切ることによって個人的利益が得られる機会は、現実の競争的市場に多数存在する。 もっと自由競争を導入せよという意見が現在は優勢であるが、私利のみの追求は信頼を切り崩し社会全体の取引費用を増大させる。
このようにして、自由競争の激化が自由競争自身の基盤を破壊することは、S氏はじめ何人かの人々によって指摘されてきた。 自由競争のパラドックスである。
人間は契約を守るものであると、ひとまず仮定してみよう。 そうすれば私利追求原則で人間の行動は説明でき、経済の資源配分は最適になるのであろうか。
倫理を問題とするときは、どうしてもこの点を確認しておかなければならない。 新古典派経済学の考え方によると、利他的に見える行動にも私利追求の目的があるのであって、私利追求原則によってそれを説明することができることになる。
たとえば、慈善事業に自己の財産の一部分を寄付することは、弱者を救済することが目的ではなく、社会的な名声を得ることが目的であるということになる。 よく考えてみると、このような私利追求原則に基づいた考え方にはいくつかの問題点がある。
第一に、現実の社会において個人が私利を追求しているかどうかを検定する方法は存在しない。

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